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福岡地方裁判所 平成7年(ワ)920号 判決

原告

有限会社巽興産

右代表者取締役

松丘冬己

原告

松丘冬己

右両名訴訟代理人弁護士

金子龍夫

坂本佑介

中嶋英博

被告

土屋直裕

右訴訟代理人弁護士

津田聰夫

松岡肇

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一  原告らの請求

一  被告は、原告らに対し、別紙物件目録記載の明渡しを受けるのと引換えに、金七〇〇〇万円を支払え。

二  原告らは、被告に対し、別紙物件目録記載の建物につき平成四年三月二〇日以降一か月金二三万円の割合による金員の支払義務がないことを確認する。

三  被告は、原告らに対し、金八〇五万円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、賃貸借契約の解約による建物明渡請求事件において立退料の支払と引換えに建物の明渡しを命ずる判決を受けた貸借人が、賃貸人に対し、右判決で認定された立退料の支払と賃貸借契約終了後の賃料相当損害金支払義務が存在しないことの確認及びその間に支払った賃料相当額の不当利得返還を求めた事案である。

一  争いのない事実

原告らは、被告を控訴人、原告らを被控訴人とする福岡地方裁判所平成元年(レ)第八一号請求異議等控訴事件において、平成四年三月六日、「被控訴人ら(原告ら)は、控訴人(被告)から金七〇〇〇万円の支払を受けるのと引換えに、控訴人(被告)に対し、別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を明け渡せ。」との判決の言渡しを受け、右判決は同月二〇日確定した(以下「原判決」という。)。

その後、被告が右金七〇〇〇万円の支払をしない。

二  争点

1  原判決に基づく立退料支払義務の有無

(一) 原告らの主張

立退料の支払と引換えに建物の明渡しを命ずる判決の金員給付条項は債務名義とならないが、これにより賃貸人には実体法上の立退料支払義務が発生する。

不動産の明渡しを求める側が立退料の支払と引換えに明渡しを求めて提訴した場合、明渡しを条件とする立退料の支払を約する旨の意思表示を行ったものと解することができる。すなわち、明渡しを求める側は、明渡しを条件とする債務負担の意思表示(単独行為)をしたものと解される(学説上は、その他に承諾擬制説、信義則説、不当利得説等がある。)。そして、判決により立退料の額が提示額よりも増額されたとしても、それは当該意思表示の解釈にすぎず、債務負担の意思表示の効力に何ら影響しない(民事訴訟法上処分権主義の建前から裁判所は申立事項を越えて本案判決を言い渡すことができない。)。してみると、引換給付判決が言い渡されこれが確定した以上、引換部分である立退料支払についても履行義務が生ずるものと考える。

仮に履行義務がないと解した場合、次のとおり甚だ不当な結果となる。第一に、引換給付判決による明渡しを求める側としては、判決で言い渡された引換給付部分(立退料)が自己の予測を越えたものであれば、上級審で争うかあるいは明渡訴訟そのものを取り下げるといった方法で自ら負担する給付内容の確定を回避することが可能である。ところが、明け渡す側はそのような措置を講ずることもできない。次に、引換給付判決が確定した場合、明渡しを求める側は引換給付部分(立退料)を提供さえすればいつでも強制執行が可能である。ところが、明け渡す側は立退料を受領するまで明渡しを拒絶できるにすぎない。したがって、明渡義務を先履行した場合には反対給付を受けられないという甚だ不当な結果を招来する。また、未だ義務を履行していないとしても、いつ強制執行を受けるかもわからない状況にあり、法的地位が著しく不安定である。とりわけ不動産明渡しについてはある程度の準備期間が必要なことはいうまでもないので、判決等により明渡義務が確定した場合、転居先を物色し明渡準備をなすのが通常である。ところが、明け渡す側がこれを履行しない場合にはそのような明渡準備行為に要した損害を一方的に負担しなければならないことになる。その上、賃貸人側が明渡しを求めてこない場合には、占有による不当利得として賃料相当額の支払義務が発生し、従前の賃料が客観的に低廉であったときには賃料相当額という名目で従前の賃料を超える負担を強いられる可能性も生じてくる。引換給付判決によってこのように一方に極端に不当な結果が生じることは到底是認されないと考える。

提供を申し出た金額以上の立退料を認められたから原判決には服しがたいというのであれば、被告は、申立事項違反あるいは釈明義務違反を理由に上訴して立退料提供を撤回することも可能であった。

(二) 被告の主張

立退料の支払と引換えに建物の明渡しを命ずる判決により賃貸人に実体法上の立退料支払義務が発生することはない。

特に本件の場合に立退料支払義務を認めることは、従前の法律的規律、慣行を離れて賃貸人に不意打ちをくらわす新たな立法をするようなものである。すなわち、被告が本件建物の明渡しに関し相当と考えて提供した立退料は高々四〇〇〇万円であって、かつ原告がなし得た金銭的準備もその限度であり、原判決の立退料認定額は被告の立場からすると不当に高額で認められず、また実際問題としてこれを支払う原資もなかった。そのため、強制執行に着手することを諦め、その旨原告らにも伝えたものであり、その後原告らは安定的に本件建物を使用してきたものである。原告らは、実体法上の支払義務が発生する根拠として、被告の意思の擬制を主張するが、原判決の認定額が被告の意思とかけ離れていることは明らかであり(昭和四六年最高裁判決にいう「格段に相違のない一定の範囲」内とは到底いえない。)、いかなる意味でも被告の意思の範囲内であると擬制することはできない。

原告らは、賃貸人の支払義務を認めない場合の賃借人の地位の不安定さを主張しているけれども、原告らが主張するような点が一般的には認められるとしても、基本的には立法により解決すべき問題であるが、実際には賃貸人が明渡請求をするなら判決から相応の期間内にすることが通常であり、もし相応の期間を経過しても賃貸人から賃借人に対し何らの意思の表示もなければ賃借人から賃貸人に執行するかどうか照会すれば足りると考えられ、さほどの支障はない。特に本件においては、被告は原判決を受けた直後からこの判決による執行に着手する意思がないことを原告らに確答しており、原告らの不安定さは全くないのである。

原告らは、原判決が受け入れられないものであれば、上告しておけばよかったと主張しているが、被告としては、上告審で原判決が変更される見込みがないと判断し、また、原判決により立退料の支払が義務付けられるなどということはあり得ないという前提で、認定された立退料を提供せずに賃貸借契約の継続を甘受し、かつ、それを原告らに知らせれば当面係争は落着すると考えて、上告しなかったにすぎないものである。

2  権利濫用(抗弁)

(一) 被告の主張

仮に、原告らに立退料請求権があるとしても、以下の事情からすると、現在被告に対しその支払を求めることは権利の濫用に当たる。

(1) 原判決後、被告は原告らに対し、明渡請求を断念することを伝え、その後約三年間原告らの安定した本件建物占有が継続されている。

(2) 原判決の立退料算定は、異常な地価上昇の時期になされたものでり、平成七年度の土地公示価格は平成三年度の約半額である。

原判決を求めた当時、被告は本件建物の敷地につき一定の利用計画をもっていたが、原判決の認定した立退料が余りに高かったため明渡請求を諦め、今日に至った。現在は当時と異なり、事務所需要や店舗需要は大きく減少しており、被告において多額の投資をして新たな建築を行うような状況にはない。

また、現時点で被告に立退料の支払を強要することは不可能を強いるものであり、仮にそうなれば、被告は本件建物の敷地を処分して立退料に充てざるを得ないが、土地の処分自体困難な状況にある。

(3) 原告らは、当初の被告の明渡請求に対し、徹底して明渡しを拒んでいたが、原判決を得るや、手のひらを返すように被告に対して明渡しの履行(立退料の請求)を迫ってきたものである。

(二) 原告らの主張

一旦確定した判決が、地価上昇の故に覆された例はない。

地価下落があったにしても、本件建物の敷地価格に比べれば原判決で認められている立退料は僅かな率を占めるに過ぎない。

3  原告らの賃料相当損害金支払義務及び被告の不当利得返還義務の有無

(一) 原告らの主張

本件建物の賃貸借契約は、原判決により、平成元年九月六日の経過をもって解約された。そして、原告らは被告に対し、前記1のとおりの立退料請求権があり、その支払があるまで本件建物を留置する権利がある。留置権者である原告らが本件建物を使用したとしてもその果実は自ら収集することができ、賃料相当損害金を支払う義務はない。

原告らは、賃料相当額を支払わないことにより何らかの不利益が生じることを回避するために、被告に対し、平成四年四月一日から平成七年二月末日まで一か月金二三万円ずつ合計金八〇五万円を支払ったが、原告にはこれらの支払義務はなく、被告は法律上の原因なくして利得したものである。

(二) 被告の主張

被告が立退料を提供して明渡しを求めない以上、現在も本件建物の賃貸借契約は存在し、原告らが被告に対し、所定の賃料支払義務を有することは当然である。

したがって、原告らに賃料として請求の趣旨第二項記載の金員の支払義務があり、また、従前原告らが被告に支払ってきた金員は右賃料であって、法律上の原因がある。

第三  争点に対する判断

一  争点1(原判決に基づく立退料支払義務の有無)について

1  証拠(甲一、乙八の1・2、一四の1・2、一七ないし一九の1・2、二三の1・2、二六、証人津田聰夫)及び弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実が認められる。

(一) 原告松丘と被告とは、遅くとも昭和四三年九月一六日ころまでに、本件建物について、賃料月額一三万円(ただしその後増額して昭和五五年九月一日以降は月額二三万円)、敷金一五〇万円等の約定で賃貸借契約を締結した(昭和四五年四月二〇日に被告会社が設立された後は原告両名が賃借人となった。以下「本件賃貸借契約」という。)。原告らは、本件建物一階部分において、そば・うどん等の飲食店を経営している。

(二) 昭和六一年五月一三日、原告らは被告に対し、本件賃貸借契約に関する即決和解調書の執行力の排除を求める請求異議の訴えを福岡簡易裁判所に提起し、これに対し、昭和六二年三月一三日、被告は原告らに対し、本件建物の明渡しを求める反訴を提起した。

平成元年三月六日、第一審の第一七回口頭弁論期日において、被告は原告らに対し、立退料なし又は五〇〇万円の立退料を提供することを条件とする解約申入れをした。

第一審は、被告の反訴請求を棄却する判決をし、被告は控訴した。

(三) 平成二年五月二八日、第二審の第四回口頭弁論期日において、被告は、被告代理人の強い説得により、立退料を四〇〇〇万円に増額する旨述べた。

また、被告は、平成三年六月二八日の第二審の第一二回口頭弁論期日において、原告らが私的に行った不動産鑑定士による立退料相当学は八〇六〇万円であるとする鑑定結果を強く争う内容の準備書面を陳述した。

第二審において、裁判所から被告に対し、立退料としていくらの範囲であれば支払うか問われたことはなかった。

(四) 平成四年三月六日、第二審の福岡地方裁判所は、原判決を一部変更し、「被控訴人ら(原告ら)は、控訴人(被告)から金七〇〇〇万円の支払を受けるのと引換えに、控訴人(被告)に対し、別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を明け渡せ。」との判決を言い渡した。

被告は、右判決で認定された立退料の金額は不当に高額であり、またこれを支払う原資もないが、右金額が高すぎるということが上告理由になるか疑問であったことや被告がこれを提供しなければ解約は無効であり、また被告が右立退料の支払を強制されることはないと考え、原判決には上告せず、強制執行にも着手しないことにした。そして、まもなく、被告代理人は、原裁判における原告ら代理人であった田辺宣克弁護士に対し、立退料は支払わないし、強制執行はしない旨伝えた。その後原告松丘本人から被告代理人に対し二、三回同様の問い合わせがあったが、被告側は同様の返事をしていた。

2  以上の事実に基づいて検討するに、被告が第一審で申し出ていた立退料の金額は五〇〇万円であったこと、被告は、第一審で敗訴したため、訴訟代理人の強い説得により第二審で立退料を四〇〇〇万円に増額したが、被告が準備できる立退料は右金額が限度であったこと、被告は立退料相当額は八〇六〇万円であるとする原告の私的鑑定の結果を強く争っていたこと、被告は、原判決後まもなく強制執行する意思を失い、即座に原告らに対し立退料を支払わないし強制執行もしない旨伝えていたことなどを考え併せると、原判決が認定した立退料の金額は、被告が提供を申し出ていた金額と格段の相違のない範囲内のものと認めることはできないというべきである。

3  そして、立退料の支払と引換えに建物の明渡しを命じる判決があっても、判決により認定された立退料額が賃貸人が提供を申し出ていた金額と格段の相違がある場合には、賃貸人に実体法上の立退料支払義務は発生しないものと解するのが相当である。

立退料の支払と引換えに建物の明渡しを命じる判決が確定した後は、信義則上、賃貸人は立退料支払の申出を撤回できず、少なくとも賃借人の受領又は明渡しのときに承諾の成立があり、このような無名契約の成立により賃貸人には実体法上立退料支払義務が発生すると解すべきである。しかしながら、このような法理は、賃貸人が申し出ていた金額と同額又はこれと格段の相違のない範囲内の金額(この範囲内では賃貸人に支払意思があったものと推定される。)の立退料が認定された場合に当てはまることであって、その範囲を越えた金額が判決により認定された場合には、それは賃貸人の意思の範囲を越えた金額であるから、信義則上賃貸人がこれに拘束されるいわれはないと考えられる。もし、賃貸人の意思を超える額の立退料の支払義務を発生させることになると、引換給付を命じる判決に非訟的な機能を認めることになるが、非訟的裁判によって義務を課すためには実定法上の根拠を要すると考えられるところ、旧借家法一条の二の規定をもってその根拠法条とするのは無理がある。したがって、このような場合には、賃貸人の申出と賃借人の承諾との一致をみることはできないから、立退料支払に関する無名契約は成立せず、賃貸人に実体法上の立退料支払義務は発生しないものと解すべきである。

4  原告らは、提供を申し出た金額以上の立退料を認められたから原判決には服し難いというのであれば、被告は、申立事項違反あるいは釈明義務違反を理由に上訴して立退料提供を撤回することも可能であったと主張している。しかしながら、被告は前示1(四)のような事情から上告を断念したものであるところ、立退料の支払と引換えに明渡しを命じる判決により賃貸人に実体法上の立退料支払義務が発生するか否かについて学説上争いがあり、この点に関する判例もない状況下で、右のような事情から上告をしなかったからといって、そのことにより原判決が認定した金額が被告が提供を申し出ていた金額と格段の相違のない範囲内のものであり、被告の支払意思の範囲内であったということにはならないというべきである。

また、原告らは、被告に立退料支払義務がないとすると、被告は立退料を提供しさえすればいつでも強制執行が可能であるのに対し、原告らは任意に明渡しを履行しても立退料の支払を請求できない等一方的に不安定な地位に置かれることになり、不当であると主張している。確かに、立退料の支払と引換えに明渡しを命じる判決により賃貸人に実体法上の立退料支払義務が発生することを認めるべき実質的な背景は原告らが指摘する点にある。しかしながら、本件のように、判決が認定した立退料の金額が賃貸人の支払意思の範囲を超えている場合日は、賃貸人にその支払を強制することが妥当でないことは前示のとおりであり、他方、賃貸人がそのような判決に基づいて明渡しの強制執行をしてくる可能性は低いこと、そもそも賃借人は明渡しを拒否していたものであり建物の占有使用を継続できることは賃借人に利益なことであることなどを考え併せると、多少の地位の不安定さが残るのは否めないものの、その程度の不安定さは賃借人において甘受すべきものというべきである。特に、本件においては、原判決確定後まもなく、被告は原告らに対し立退料は支払わないし、強制執行はしない旨伝えており、原告らの地位の不安定さは極小さいものとなっており、もともとは明渡しを拒否していた原告らが、被告申出の金額よりかなり高額の立退料が認定されたため、その支払を受けたいがために建物を任意に明け渡すと申し出てきているにすぎないのであって、このような立場の者をことさら保護する必要はないと考えられる。

5  以上のとおりであって、本件においては、賃貸人である被告に原判決が認定した立退料の支払義務があると認めることはできない。

二  争点3(原告らの賃料相当損害金支払義務及び被告の不当利得返還義務の有無)について

前示一のとおり、原告らは被告に対し立退料請求権を有するとは認められないから、原告らの賃料相当損害金支払義務不存在確認請求及び被告に対する不当利得返還請求はいずれも理由がない。

なお、原判決が認定した立退料額は前示のとおり被告の支払意思の範囲を超えたものであるから、被告の立退料提供の申出により正当事由は補完されず、本件賃貸借契約解約の効果は発生しないことになる。したがって、本件賃貸借契約は現在も有効に存在し、原告らが本件建物を継続して占有使用している以上、原告らには被告に対し賃料を支払う義務が存在するというべきである。

三  よって、その余の点について判断するまでもなく、原告らの本訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官岡健太郎)

別紙〈省略〉

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